ローマ人の物語6,7

結局続きも読むことに.

いま7巻の途中なのだけどかなり気になる点があって,記憶という意味でも書こうと思っている.それはキリスト教の扱いだ.塩野七生という人はキリスト教というものを勘違いしている.いや,正確には中世以降,そして現在のキリスト教と呼ばれているものに囚われすぎている.

イエス・キリストは人間は「神」の前に平等であると言ったが、彼とは「神」を共有しない人間でも平等であるとは言ってくれていない。

このあとに奴隷云々と続いているのだけど,明らかにこの人は聖書を読んでいない.イエス・キリストは異教徒も含めて、あらゆる人間が神の前で平等と言っている。旧約聖書といわれるものはヘブライ語で書かれていた.ユダヤイスラエル)人という一民族のみへの加護であったからだ.イエスの弟子によって書かれた新約聖書がその頃の共通語ギリシャ語(一部アラム語)で書かれたのは,ユダヤ人のみではなく,すべての民族に対するものだからだ.

この人はこれより前の巻でもキリスト教が生き延びたのは異教を取り入れる柔軟性があったからだとしているが「イエス・キリストの教え」はそのようなことを許してはいない.ただキリスト教がそのようなことをしてきたのは事実である.クリスマスはもともと異教の太陽神に対する冬至の祭りであるし,神と子と精霊という考え方はやはり異教の三位一体を取り入れた結果である.それは3世紀以降にキリストとは直接関係のないところではじまった.

もちろんこの本はあくまでローマ人の物語であるが,ローマ人ももちろんキリスト教とは直接の聖書の時代でもイエスが産まれたのはローマの人口調査のときであったり,「カエサルの物はカエサルに」とか,ネロによる迫害など無関係ではない.にも関わらず後世のキリスト教だけを見てこのような論述をしているのは残念である.

こういうことを書くのはいつも躊躇するのだけど,たまには.

ローマ人の物語 (6) ― 勝者の混迷(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (6) ― 勝者の混迷(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (7) ― 勝者の混迷(下) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (7) ― 勝者の混迷(下) (新潮文庫)